昭和46年12月10日 朝の御理解



 御理解 第64節
 「此方は参って尋ねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るが、信心して徳を受けて、身凌ぎをする様になれ。」

 信心を段々進めてまいりますと、分らない、いわば事ばっかりですけれども、その分らない事。それでも教祖のもとにお参りをした人達。お伺いをさせてもらうと、それに対して、色々とご返事を下さったと。お伺いと申します。ただ右にして良いやら、左にして良いやら分らない。迷うておる様な時の場合もあれば、又は信心とは云う様な場合もある。此処へ参って来る人達はその、遠路の所を参って来るけれども、お伺いが出来ると言う事は有り難い事だと、ね。
 けれども、やはり教祖金光大神様、いわゆる此方と仰る。此方がそのおる間だは良いけれども、お尋ねをする事が出来なくなったら困るであろう。だから「信心して徳を受けて、身凌ぎをする様になれ」と。まぁ自分で身凌ぎ。ね、自分で直接神様にお伺いさせてもろうたり神様から信心の指針なら指針を与えて頂くと言う所まで、信心をして徳を受けて、おかげを受ける様になれと、まぁ仰っておられる御教えだと思うんです。私は今日朝、「信心して徳を受けて、身凌ぎをする様になれ」と。
 と云う事は新たなもっとそれよりも本当な、今申しました様な事よりも、もっと本当な身凌ぎというか、又教祖様も神様もそれを願いとしておられるだろうと思う身しのぎ。互い徳を受けて、まぁ徳というよりもね、霊徳とでも申しましょうか。受けて神様にお伺いをしたり、出来たりと言った様な事ではない。それをもっと、神様の願いであろうと思われる身凌ぎとは、どう言う物だろうかと云う事を、今日は聞いて頂きたいと思う。今日私御神前で、「胸に花を付けるより、心に花を」と頂きました。
 あの記念祭などに参りますと。先生方あれはこう、胸に花を付けて下さいますね。それが偉い先生になると、もっと大きなこう菊の花の様なのを付いておる。まぁ教師と、信者のまぁ区別と。んやそりゃ信者でも色々の係りの人色んなもの、此処に胸に付けてます。やはり小さい花よりも大きい花を付けてもらっとると。やはり俺は偉い先生だぞと。誰が見ても分る様な花を付けたり、はーあの先生は大きな花を付けてあるが、何処の偉い先生じゃろうかと。まぁ見られる様な花を付けたり。
 そういう例えば花よりもです、そういう花を例えば無くても、心に花を付けさせてもらう、おかげを頂けと云う事だと思う。心に花を。心に花をと云う事は、心に喜びをと云う事でしょう。信心の花というなら、信心の喜びなのだ。心に信心の喜びを持てという。いやそれが何時も心に信心の喜びが持てれる様なおかげを頂けと云う事だと思う。昨夜私お風呂まぁ入らせて頂いた。まだ薄ぐらかの時でしたから、電気を点けずにお風呂入らせてもろうた。ほれでもう中でもう大分暗くなった。
 まぁそれでもまぁ別に電気をわざわざ点けんでも、私は何時もそう致します。外から誰か来てから、点けてくれればいざ知らずですけれども、私はあの電気を点けんなりに入らせて頂く。それに私何時もその所謂勿体無いと言う物がある訳ですね。だから勿体無いと思うからバチバイその本当に必要な時には、もうどれどんなにその百色を幾つ点けても、それはそれこそ有り難いのですけれども、それで不自由しないならば。
 それでやって行けるならば、こう電気に限らず所謂始末倹約と云う事は、是は有り難い事だと思うです。しかもその始末倹約も神様の御物として大事にするというね、甘木の初代なんかはその典型的なおかげであったと思うんですけれども、此処の一枚でも枯葉枯枝一一枚分でも神様の御物として大事に取り扱われたというのですから、やはり段々信心がそこの辺が分かって参りますとです。
 やはりそうしなければおられなくなって来る。ね。ほいでまぁ電気なしにまぁ薄ぐらがりで上がらせて頂いてから、私体のまぁ痛い所かゆか所やら色々必ず、体にお神酒を頂くんです。それで何時もそのお神酒を小さいビンに入れて、風呂の所に置いてあります。ですからそのお神酒を出して、こちら棚にちょっとこう上げてから付けようと思うけどその真っ暗ですからね。真っ暗じゃないけど暗いですからね、こう手探りにちょっとこうした途端にそのビンが当たったもんですから下にコンクリの上に落ちたんです。
 もう粉みじんに割れたんです。それから、あたしゃ電気を点けましてね、もうそれはもう、ちんぎりに割れてしもうとった。それでそれを、綺麗に拾らって、そして、お神酒も又はい、大分入っておりましたから、いっぱいにしとりますから、今度、お神酒を手にこうこう、べたべた付けてから、そして、そのまぁ体にこげんやって、こう付けさせて頂いた所が、手にそのガラスの破片が付いとったもんでから、チカッとする。
 てその様な事であった。又手でこうやって綺麗に、その粉になっとるとを、こうやって集める様にしたら、手に此処に、ガラスの破片が抜っとる。ならだけん又それを、とらせて頂いて、やっぱこっち側でやった。そういう時にですね、例えば私の心の中に動くものは、動く心というのは、自分が此の様に真心になっておるわけ、例えば昨日の、朝の御理解、「何事にも真心になれよ」とこうおっしゃる。神様の御物と思うて、電気でも始末倹約させてもらう。ね、
 それは真心だと私は思うておる。何事にも真心になれせて頂いておるのに、こういうこの不調法な事をしてしまうた。しかもまぁ怪我って云う程じゃないけれども、そのまぁちょっとしたあの怪我をしたり。それでもまだ、ならお神酒が勿体無いから、そげんガラスの破片の中にお神酒をこうやってそげな事せんでん、良かつが、やっぱそれを手に付けてから体にこう付けよったら、体がチカッとする。あいた、ガラスの破片がちょこっとばっかり抜かっとる。まぁおかしな話である。
 だからこげなこつは、やっぱせんが良かなぁとはさらさら思いませんね、私は。やっぱりもう電気ぱっと点けちから、すとこんな、ビンもひっくり返す事もなからなきゃ、割る事もない。チカッとする事もなかなきゃ、怪我もせんでいい。むしろ私はその、もう微塵になっとる、ガラスの破片を綺麗に取って、それから雑巾をまた、何回も何回も替えて、まぁそこに、もう綺麗に拭いて。
 そうしておるうちにですね、私がお茶でいう、あの侘びとか錆というのは、こういう時に感ずるものではなかろうか、と云う様な物を感じる。ね、例えば不自由なら不自由、困ったなら困ったと云う事の中にでもです、いわば安全を感ずる。ね。私はそう云う様な気持ちで、此処綺麗に、相当時間をかけてから、まぁ片付けさせて頂いておりましたら、心の中に、まぁいわば響いて来るもの。「芽が出りゃ刈られ、葉が出りゃ摘まれ。それでも、茶の木に花が咲く」というのである。
 「芽が出りゃ摘まれ、葉が出りゃ刈られ。それでも茶の木に花が咲く」。丁度私それは、その通りであったですね。ガラスの破片をこうやって綺麗に拾らわせて頂いて、ね、そして、それでもお神酒がこぼれておるから、そのお神酒が勿体無いと思うて、手、手に付けるだけ付けてから、体にぐちゃぐちゃこうこう付けておる。そしたら、体にその破片が抜った見えてチカッとこう、小さく残っとる。それけんこう勿論手で摘んで取れましたけれども。そげな、その事せんでんと思うごとある。
 その上今度、手でこうやって寄せよったら、手に血が出る様に破片が刺さっておる。もう本当にそれでも、それでもやはりせにゃおられんのである。勿体無いという心は、もうこげなこつはしちゃならん。こげな事はもうするなよて。私は信心を進めていっておるうちにです、真心になっておると思う。ね、又何事にも真心になれと仰るとは、真心にならせて頂いておる積りだけれども。
 信心しとってこげなこつが起こるごたるならば、こげなこつはちょっと考えもんばいと云う様な、考え方はもう信心を進めて行く事には絶対になりませんです。其処でもし割り切ったらもう信心な進みませんです。それでもやはり刈られようがつまれようが、それでもやはりそこを貫いて行くと云う事の先にです心に花が感じられるのです。善導寺の原さんが何時か、それこそもう有り難い有り難いでもう自転車に乗って、金光様有り難う御座いますでやぁやぁまぁこう椛目の方へ向かってみえよった。
 もう昔の話です。所がもう有り難い有り難いで、やっぱ有り難い時は目瞑りますからね、はぁ有り難かでほしたら、目瞑ぶった途端に田の中に突っ込んで御座った。いうなら信心に心有り難うして答えん。はー有り難いと目瞑ぶって有り難いと言うた時から、に自転車は田の中に落ち込んどった。ね、それでも、やはり、有り難いのである。私もう、信心を進めて行く上にもう一番大事は此処だと思うですよね。信心しよって、そげな事があるごたるならば、何事にも真心になれよと仰るから。
 真心になった積りじゃった所が、ビンが割れたり、酒がこぼれたり。しかも手にチカッと残ったり、体にチカッと、ガラス破片が、そのして、もうそれそれに一つもあ痛たとも思わなければです、ね、いらん事しよったけんとも思わん。そこにまぁ何ともい何とも言えん、まぁお茶の稽古でもする人であるならば、侘びとか錆とかと言う物は、そういう中から生まれて来るんじゃなかろうかと、私はそれが真心ですから、それが有り難い。そうさせて頂いておる事がね。
 もう又からこげな事をしちゃならんと言った様な物はさらさらなくて、それでもやはり、私は電気をいうならばぱちぱち点ける様な事はおそらくしないだろう。ね。やはり出来る限りは、電気も始末倹約するだろう。例えばそう言う事であって、そういう目におうても、ね、それでもやはり茶の木に、それでも咲かせねばおかん。いやそれでもやはり、そうする。それでもやはり電気をバチバチ点ける様な事はしないて。
 信心をしておってです、こう言う事がある事は、ならばもう参らん方が良かと、と例えば言わにゃん時であっても、それでもやはり参らなければおられないという、向こうに心に花は頂けるものである。信心を進めて行く上に、ほんに大事な事だと私は思う。そういう私のその言おうとしておる気持ちが分って頂いておるだろうかしら。ほれで言わんこっちゃなかちゃね。
 もう、風呂に入ってから、もう薄くなったら電気を、そりゃ初めから薄暗らかなら点けて入ろうけれども、段々入っておるうちに見えんごとなった。だからというて、別にそれで、その困る事はないから、ね、勿体無いと思うて点けない。そげな事しよるけんで怪我するたい、そげなことしよるけん、ビンを割るったい。と人が例えばいうかもしれんけれども、それでもやはり、ならそれは続けたい。ね、例えばなら今夜、夕方ならお風呂入らせて頂いて、昨日と同じじゃったから。
 昨日あげなことがあったから、今日はもう電気点けてから、早よから入ろうという様な気持ちはさらさら起こらない。それでもやはりそれは続けたい。そこから信心のいわば喜びにというか、ね、それをそうさせて頂いておる事が、何とはなしに有り難いと云う様な心が頂ける方が有り難い。此処で「信心して、徳を受けて身凌ぎをする様になれ」と云う事は、どの様な場合であっても、それを貫かせて頂けれる、その先に頂かれる所の、喜びが頂ける様になるまでだという、私は意味だと思います。
 信心をね、させて頂いて、こんな事が起こった、こりゃもう参らん方が良かたい、と言う間だは、まだまだ信心が、いわゆる身凌ぎが出来ておるのではない。信心の身凌ぎというのは、信心させて頂いておって、例えばどの様な事になって参りましても、起こって参りましても、ね。それでもやはり、信心は止められないと云う所からです、受ける所の喜びが頂ける様に成迄が、身凌ぎだと私は今日は頂いて頂きたいと思うです。もう安心ですね。もう大丈夫ですね。そこまでの信心が出来たら。
 いわゆるそれが身凌ぎ。本当の意味においての、いわゆる金光大神様の天地の親神様も、どうぞ身しのぎ出来る様な信心になってくれと仰るのは、私はむしろそういう意味の信心を頂く事だと思わせてもらいますね。胸に花を付ける。いわばおかげの花とでも申しましょうか。胸に付けたい。その胸に付ける花よりもです、心に花を付けさせて頂けれるおかげ。それを私は身凌ぎだと思う。
 もう今日、私が昨日、その、風呂場での、まぁおかげ話というか、失敗談というか。ね、これは一つもう一遍皆さん、よく思うてみて下さい。私ならどうするだろうかと言う所。ね。こげん所に始末倹約ていや、こりゃ考えもんと思うたりね。そげんもうこう電気がの一杯ある所に、そのいくら勿体無いちゅうたっちゃお神酒ばこうやって手に付けちから、体に付けたりなんかするけん体に怪我するたいと。と云う様な事ではなくてです、ね、その例えば怪我をしてもです、ね。
 例えば少しは不自由であっても、やはりね、それでもそうさせて頂かなければおられないというのである。それでもそうするに違いはない。それを貫くに違いはないと云う事です。信心も頂き違えるとそげな、そげないわば事になると云う様な頂き方をする人もありましょうけども、私は信心とはそれだと思う。「目が出りゃ摘まれ、葉が出りゃ刈られ」だからもう花を咲かせんというのじゃない。
 「それでも茶の木に花が咲く」である。是が本当だと是が信心だと分からせて頂くならばです、その是が本当だという信心を貫きよる、その道筋すがらにです例えば昨日でいうならば、私がビンを割ったり酒をこぼしたり怪我をしたりと言った様な事でありましてもです、ね、その事が信心だと例えば確信が持てておる事ならば。それでもやはり是は貫くと云う事です。その貫いた先に何とも言えん、味わいと言う物があると云う事。お茶でいう侘びとか錆とかというのは確かにそう云う様な事であろう。
 不自由の中にでも、ね。侘びとか錆とかの味わいを、いわゆる追求してお茶をする人達が、お茶の勉強をする様に。信心させて頂く者は、信心させて頂いておると、どうしてこんな事が起こるだろうかと云う様な、事の場合であっても、ね、その中から信心の喜びを頂こう。なら信心の喜びを頂こうと云う事はです、頂けると云う事は、それでもと、そこを貫く所に、その喜びがあるのです。ね、その喜びがですね、頂ける様になる事が、成程是が身凌ぎであろうと思います。
 信心して、段々身に徳を受けて、そういう身しのぎの出来れる信心させて頂いておるうちにです、どの様な場合にあっても、そこに喜びを追求して行くという、ね、それでもそこを貫かなければおられないという信心に、徳が頂けると思う。右に転んでも、左に転んでも、やはりどちらに転んでも有り難いという心なんです。そういう心を目指す、又それを頂く事が信心だと分からせて頂いて信心を進める。
 是なら、間違いなしに身凌ぎです。もう誰に聞かんでも、訪ねんでも良い訳です。ね、そこまでの信心を進めていきたい。「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るが、信心して徳を受けて、身凌ぎをする様になれ」と、ね。自分でいよいよ信心の喜びの深い所に、広い所に入って行けれる、私は信心を頂きたい。それには、今日私が申しました様な所をです、ね。
 昨日の私での、風呂でのおかげ話というかね、体験談をもう一つようと思うてみて、ね、皆さんの日常茶飯事の中に起きてくる、様々な、信心しよってもやはり起きて来る問題。こげんする事が信心だと教えられておるから、こうしておるのにも関わらず、是程信心しておるのにも関わらず、こんな事になった。と言う所をです、ね、それでもやはり其処ん所を貫いて行くという信心。それでもやはり茶の木に花を咲かせて行くという、自分の心に花を頂いて行くと云う事がです
  (テープ切れ)